塾のチラシといえば「点数アップ」「成績アップ(成績保証)」そんな言葉が当たり前に載っています。
同じように不安を煽りたくないな、くらいに以前は思っていましたが、今は明確にそれらを上位に置いて子どもたちと接するの有害ではないかと感じています。これからの時代は特に。
もちろん結果的に上がったり、本人が目標としているものがあってがんばる、これはいいと思うんです。それは一緒に嬉しいです。
「点数アップ」「成績アップ(成績保証)」に否定的ののはなぜか。
今、入試に向けて小論文の指導をしています。
小論文なので作文とは異なります。
論文なので自分の意見を出し、それを事実や考察から読み手に「ああ、そうだよね」と思ってもらう、それを目指しています。
教えられるのは、型や言い回しなど。またおかしな点などを修正してあげるのみです。
小論文の中身については教えられません。
論文は「意見」の面白さが重要です。ただし「意見」は教えられません。
そして「意見」のもとになる事実である知識と考察、それらももちろん教えられません。
自分で調べたり、普段の「興味」からストックしていた知識を用いて考えていきます。
つまり自分の知的好奇心を背景とした「寄り道」で得た知識の数々が重要になってきます。
その人の「寄り道」が読み手をハッとさせるような面白い要素になります。
反対に面白くない論文は意見がありきたりです。
「寄り道」をしてこなかった。「言われたことだけやってきた」だとこうなりがちです。
残念ながら教えてもらってできるものだとありきたりにならざるを得ないんです。
それでも間違いがなければ点数はもらえるかもしれません。そして希望の学校に入れるかもしれない。
でも、よく考えて欲しいのは、その後も人生が続くということです。
大学以降では自分の興味関心で学んでいきます。動機となる興味関心がなければ高校までの延長で与えられるものをやるだけです。
もちろんそうした興味関心がなかなか見つからない、というのは仕方ないことでもあります。
でもいつか、興味関心が見つかった時のために、自由な教育の場である塾は「学ぶことは楽しい」と教えたいなと思っています。
「これ以上先は教えられない。君の世界だよ」と言われた時に、むしろ自分の自由な学びの世界にワクワクする人になってほしい思います。
そうすれば、これからの時代(つまりこれまでのように学歴を得て会社に入ればそれであがりではなくなりつつある時代)に
ちゃんと学び、自分を楽しみながら変えて生きていけると思っています。
それが「成績アップ」「点数アップ」を目的にしてはいけない、と考える理由です。
それを目的にしたら、学ぶ楽しさではなく、順位を上げたり点を取るというゲーム性、もしくは人に「すごい」と言われることが
学ぶ理由になってしまいます。
それで年齢を重ねても、いい学歴を得ても自分の答えには辿り着けません。
いつまでも誰かの評価が必要になってしまいます。
こうしたことが確信になったのは、生徒たちのおかげです。
少しずつそれに気づいている子が出てきています。
成績のこと、点数のことなんかで勉強させるのが意味がない、くだらないとさえ思っていそうな。
特に、前回のポッドキャストでもお話しした生徒の存在も大きいです。
自分自身の進路にワクワクしている。そして私も「うらやましいなー!」と話しています。
よろしければお聞きください。
前回「進路について①」
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